2009年06月16日

密度勾配遠心法

生化学では塩化セシウムなど式量の大きい塩の溶液中を超遠心機(後述)に施して、高分子化合物を分離する密度勾配遠心法(みつどこうばいえんしんほう)が利用される。これは溶液を長時間、超遠心機に施すと沈降とブラウン運動が釣り合う沈降平衡が生じ、これが液面から底に向かって連続的変化する。それゆえ、特定の密度の粒子や、タンパク質の分子量に応じて層を成して分離する現象が見られ、この原理を利用して高分子の分離や平均分子量を推測することができる。また、血球細胞の分離の際にもショ糖溶液などを用いて行われる。その際には細胞が損傷を受けないように超遠心機ではなく、通常の遠心機によって分離される。

遠心分離に使用される装置を遠心機(えんしんき、centrifuge)と呼ぶ。筐体とその内部の回転子とで形成される。手回し式のギアで回転させるものから、高速電動モーターで回転させるものまでさまざまである。

遠心機の能力は発生する遠心力をG(重力加速度)で計測した値で示され、数千Gまでかけられるものを遠心機、数万G以上をかれられるものを超遠心機(ultracentrifuge)と呼び区別している。

回転子は用途によりさまざまな形状が存在する。サンプル容器は沈殿管(ちんでんかん)と呼ばれ試験管、スピッツ管、ディープウエルプレート、マイクロチューブなどが使用されるため、通常はアダプターを取り替えることで、種々の容器に対応できるようになっているものが多い。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学


いずれも、回転速度により遠心力ベクトルが変化するのに、管の向きを鉛直に保てるように振り子式の支点でアダプターを回転子に保持させるようになっている。ただし、管の角度が常に一定になっている遠心機も存在している。また、回転子の重量配分に偏りがあると高速回転時に振動を発生し危険でもあるので、サンプルは重量配分に偏りが無いようにセットされる。

超遠心機では、種々の部位による摩擦による発熱が無視できないので、生化学用の超遠心機にはサンプルを冷却する仕組みが備えられたものもあり、これらは冷却遠心機と呼ばれる。場合によっては減圧にすることで、空気との摩擦を減らす冷却遠心機も存在する。

2009年05月30日

倭国は百済滅亡で多くの百済難民

倭国は、百済滅亡で多くの百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。その影響で急速に国家体制が整備され、天智天皇のときには近江令と呼ばれる法令群が策定され、天武天皇のときは最初の律令法とされる飛鳥浄御原令の制定が命じられるなど、律令国家の建設が急ピッチで進んだとされる。

そして、701年の大宝律令制定により倭国から日本へと国号を変え、新国家の建設はひとまず完了した。以上のように、白村江の敗戦は、倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の建設を結果としてもたらしたと考えられている。
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なお、百済王の一族、豊璋王の弟・善光(または禅広)は朝廷から百済王(くだらのこにきし)という姓氏が与えられ、朝廷に仕えることとなった。その後、陸奥において金鉱を発見し、奈良大仏の建立に貢献した功により、百済王敬福が従三位を授けられている。

古田武彦らの九州王朝説の主張によれば、白村江で戦ったのは畿内ヤマト王権(日本)軍ではなく大宰府に都した九州王朝(倭)軍であるとする。しかし、日本古代史の学界からは史料批判などの歴史学の基本的な手続きを踏んでいないとして「学説として批判・検証を受ける段階に無い」と見做され黙殺されている。査読のある学術雑誌において、九州王朝を肯定的に取り上げた学術論文は皆無であり、一般に九州王朝説及び関連する主張は科学的な学説とはみなされていない。

2009年04月27日

ブレークアップ

人工衛星や多段ロケットの最終段などが軌道上で爆発することを「ブレークアップ(破砕、爆散)」という。1961年から2000年までに163回のブレークアップが起きており、多い時は1回で数百個から千個以上(観測可能なものだけで)のスペースデブリが発生する。これらは爆発前の軌道に沿って雲のような塊(デブリ・クラウド)を形成するが、時間が経つにつれて徐々に拡散していく。

ブレークアップの原因としては次のようなものが挙げられる。

バルコニー美的生活COM
シェークスピア 経済ガイド
相棒快適生活ナビ
デパーテ健康トレンディサーチ
ウィナーズ買物隊紹介
通信教育・生涯学習関連教育対策サイト
遊園地・チケット予約関連観光タウンネット
ピエールオジェコスメ販売情報
ジェメンド マネービジネス情報
ワンパック生活雑貨情報
カランドようこそ健康情報

意図的な破壊
衛星攻撃兵器(ASAT)の実験や、軍事衛星が他国の領内に落下することを防ぐための指令爆破など。冷戦中には米ソとも人工衛星の破壊実験を何度か行ったが、デブリの危険性が明らかになるにつれて自粛されるようになった。
1984年1月、アメリカが衛星攻撃兵器の実験を行った。F-15戦闘機から発射されたミサイルを目標衛星に命中させることに成功したが、破壊された衛星の破片が大量のデブリとなって残留した。
2007年1月、中国が弾道ミサイルを使った老朽化した人工衛星の迎撃実験を行った。この結果、一時的に700個前後のデブリが発生したと見られており、NASAは脅威ではないとしながらも、その一部が軌道上に残る可能性があると懸念を表明した。これを受け、国連では宇宙空間で人工衛星を破壊することを禁じる法案を採択することになった。
推進剤の爆発
役目を終えた液体燃料ロケットの推進剤が残っていると、タンクの隔壁に亀裂が入って燃料と酸化剤が接触・反応したり、太陽熱によってタンクの内圧が上がったりして爆発することがある。これはタンク内の推進剤をすべて放出してしまえば防ぐことが出来るが、そうした措置が取られるようになる前に打ち上げられたロケットが10年以上経ってから爆発した事例もある。
2007年2月19日に発生したロシアのプロトンロケット上段ブースターの爆発では、1100個以上のデブリの発生が確認されている[2]。
電気回路のショート
人工衛星に搭載されている二次電池が回路のショートによって加熱、爆発する。
衝突
人工衛星同士、デブリと人工衛星、あるいはデブリ同士の衝突。衝突事例を参照。
特定の軌道をとるデブリの密度が臨界値を越えると、衝突によるブレークアップが連鎖的に発生してデブリが自己増殖する可能性があると言われており、ケスラーシンドロームとも呼ばれる。

2009年04月11日

軌道共鳴

軌道共鳴(きどうきょうめい、orbital resonance)とは、天体力学において、公転運動を行なう二つの天体が互いに規則的・周期的に重力を及ぼし合う結果、両者の公転周期が簡単な整数比になる現象である。公転周期がこのような整数比になっている状態を尽数関係 (commensurability) と呼ぶ。尽数とは有理数の古い呼び名である。

17世紀にニュートンの運動の法則が発見されて以来、惑星軌道の安定性の問題はピエール=シモン・ラプラスを始めとして多くの数学者を虜にしてきた。太陽系の惑星の軌道は太陽とその周囲を公転する1惑星という2体問題近似の下では安定な軌道をとるが、この近似では他の天体の影響は無視している。これに他の惑星との相互作用を加えると、たとえそれが非常に微小な摂動であっても、長い時間にわたって影響を与え続け、最終的には惑星の軌道要素を変化させて太陽系の惑星は全く異なる配置になるはずである。しかし実際にはそのようなことは起きていないことから、惑星の軌道を安定化させる何か別のメカニズムが存在すると考えられた。この問題の解答を最初に発見したのはラプラスで、彼はガリレオ衛星の運動に見られる変わった振動の原因をこの共鳴理論で説明した。これ以降、この分野の研究は今日に至るまで活発に行なわれており、現在でも未解明の問題が数多く残されている。(例として、巨大惑星の環の粒子と衛星とが相互作用して環の形状を維持する機構などはいまだに解明されていない)

共鳴の種類 [編集]
軌道共鳴は一般に以下のような性質を持つ。

一つもしくは複数の様々な軌道要素パラメータの間に生じる(例: 離心率と軌道長半径の共鳴、離心率と軌道傾斜角の共鳴など)。
短い時間尺度、公転周期と同程度の時間尺度、永年的なもの(104?106 年)など、様々な時間尺度で起こる。
長期間にわたって軌道を安定化させる方向に作用する場合もあり、軌道を不安定化させる方向に働くこともある。
平均運動共鳴 (mean motion orbital resonance) とは2つの天体の公転周期が簡単な整数比になっている場合の共鳴である。天体の詳細な状態によって、軌道が安定化する場合も不安定化する場合もある。軌道が安定化するのは、2つの天体が同期状態の下に運動していて決して近接遭遇を起こさないような場合である。例として以下のようなケースがある。

冥王星や冥王星族天体はより質量の大きな海王星の軌道と交差しているにもかかわらず、安定な軌道を持っている。これはこれらの天体と海王星の公転周期が 3:2 の共鳴状態にあり、海王星から常に離れた位置にあるためである。海王星と交差するが海王星との共鳴軌道を持たない数多くの他の天体は、海王星から強い擾乱を受けてこの領域から弾き出されてしまう。
トロヤ群小惑星は太陽‐木星系のラグランジュ点に位置し、木星と 1:1 の共鳴にあるために安定した軌道を持つ。
太陽系外惑星のグリーゼ876bとグリーゼ876cは 2:1 の軌道共鳴の状態にある。
軌道共鳴は天体の軌道を不安定にする場合もある。小さな天体の場合は共鳴によって軌道が不安定化する場合の方が多い。例として以下のようなケースがある。

小惑星のメインベルトにはカークウッドの空隙と呼ばれる小惑星のほとんど存在しない領域が存在する。この領域は木星との平均運動共鳴が起こる位置に相当している。この領域にある小惑星は木星からの摂動を繰り返し受けて領域外へ弾き飛ばされる。
3個またはそれ以上の天体の公転周期が互いに簡単な整数比になっている場合の共鳴をラプラス共鳴 (Laplace resonance) と呼ぶ。例えば、木星の衛星ガニメデ・エウロパ・イオの三つは互いに 1:2:4 の軌道共鳴の状態にある。

二つの天体の軌道の歳差(通常は近日点歳差)が同期している場合の共鳴を永年共鳴 (secular resonance) と呼ぶ。小天体がより大きな天体(惑星など)と永年共鳴の状態にあると、小天体は大天体と同じ割合で歳差運動を起こす。永年共鳴は約106年といった長期間にわたって天体の軌道に作用し、小天体の軌道の離心率や軌道傾斜角を変化させる。顕著な例として以下のものがある。

小惑星と土星との間に ν6 永年共鳴と呼ばれる共鳴がある。土星に接近する小惑星はこの共鳴によってゆっくりと離心率が増加し、やがて火星軌道の内側に入るようになる。このような軌道をとる小惑星は火星との近接遭遇によって小惑星帯から弾き出される。この共鳴によって、メインベルトの小惑星分布には約2AU付近に内側の境界が作られ、また軌道傾斜角に対する分布でも約20度を超える小惑星が存在しないという境界が作られている。

太陽系の平均運動共鳴
太陽系の惑星や衛星の間には次の5つの平均運動共鳴のみが知られている。(より大きな整数比の共鳴は小惑星や惑星の環、小衛星などにのみ見られる。)

2:3 海王星-冥王星
4:2 ミマス-テティス(土星の衛星)
2:1 エンケラドゥス-ディオネ(土星の衛星)
4:3 タイタン-ヒペリオン(土星の衛星)
1:2:4 イオ-エウロパ-ガニメデ(木星の衛星);唯一のラプラス共鳴
公転周期の整数比は共鳴の性質を簡潔に表す便利なものだが、実際には以下のようなより複雑な関係が存在している。

会合点が共鳴によって定義される平衡点の周りを振動する。
軌道の離心率が 0 でない場合、軌道の昇交点・降交点や近点が移動する。(共鳴に関係したこの種の移動は短周期のもので、永年的な歳差とは異なる。)
後者の例としてよく知られたイオとエウロパの 1:2 共鳴を考える。公転周期がこのような整数比になっていると、平均運動 (公転周期の逆数の次元を持ち、度/日の単位で表されることが多い)は次の関係を満たす。
しかし実際にイオとエウロパの平均運動の値を上式の左辺に代入してみると、結果は -0.7395 °/日となって 0 にならない。

実際には共鳴自体は完全だが、ここに近木点(木星に最も近い点)の歳差が加わる。よって正しい式は以下のようになる(これはラプラス方程式の一部となっている)。

すなわち、イオの平均運動は近木点の歳差を考慮に入れればエウロパの平均運動のちょうど2倍になる。もし移動する近木点からこれらの天体を観測すると、この二つの衛星は(近木点からの離角が)常に同じ位置で会合を迎えるのを見ることになる。上に挙げた他の平均運動共鳴の

ラプラス共鳴 [編集]
イオ?エウロパ?ガニメデの間に見られる最も注目すべき軌道共鳴では、以下の関係によって衛星同士の軌道上の位相が同期している。

ここで λ は衛星の平均黄経である。この関係があるため、この系では3個の衛星の三重会合は決して起こらない。

「準」平均運動共鳴 [編集]
太陽系の衛星の中には以下のような共鳴に近い関係のものも存在する。

土星系:

(5:3) レア‐ディオネ
天王星系:

(3:1) ウンブリエル‐ミランダ
(5:3) ウンブリエル‐アリエル
(2:1) チタニア‐ウンブリエル
(3:2) オベロン‐チタニア
土星系や木星系に共鳴が存在するにもかかわらず天王星系に(完全な)共鳴が見られない理由は分かっていない。

また、海王星‐冥王星以外の惑星の公転周期についても以下のような準共鳴状態が存在していると主張する人もいる。

(2:1) 海王星‐天王星
(3:1) 天王星‐土星
(5:2) 木星‐土星
(ティティウス・ボーデの法則を参照のこと)しかし、様々な研究が行なわれているにもかかわらず、これらの準尽数関係については有力な証拠は得られていない。

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2009年03月27日

ゲルマン人

ゲルマン人(ゲルマンじん、German)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンジナビア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ系を祖先としインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を話す諸集団(≠民族)の事を指す

ゲルマン人は古代時代にはローマ帝国を脅かす蛮族として活動し、中世にはローマ人(ラテン人)・キリスト教文化との混合によって中世ヨーロッパ世界を形成した。現代においては、ドイツ、オーストリア、スイス、ルクセンブルクオランダ、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク等に住む人々、イギリスのアングロ・サクソン人、ベルギーのフランデレン人、フランスのアルザス人、イタリアの南ティロル人がこの集団の系譜を引いているが、何れの勢力も長い歴史の中で複数の部族間の離合集散や異民族との混血を繰り返しており、古代のゲルマン人とは同質ではない(これはほかの民族も同様)。また、フランスはその国名がフランク王国に由来するように、少なくとも支配層の流れはゲルマン系であるが、ラテン、ケルトと完全に混成化しており、ゲルマン人国家と呼ばれることはまずない。

ゲルマン人という用語を広めたのはユリウス・カエサルであると考えられているが、カエサルはこの言葉を「ゲルマニアに居住する非ケルト系の民族」「ガリア北東部に住む系統不明の民族集団」という二つの定義で用いた。後者の定義による集団は今日でもケルトかゲルマンか判然とせず、また前者の定義はゲルマニアにはゲルマン系だけでなく、ケルト系の民族も存在していた事を示している。このような複雑な経緯から、ゲルマニアに住んでいた諸民族の系統については現在も考古学の分野で議論が続けられている。
マクロ ロード ナビビラ 地中海 フロー ワダン リグベーダ 探険隊 クロス テレキ シルエット メイン キュリーズ ファイト フロー ターキ 草競馬 ブロイ オフテン タオル ダイアリー ビルト ビヤマグ ビードロ ローシップ ウーマンパワー グルタチ ダクター ルテオリン マイムエ はだし ポルテ 百日紅 サイダー ミニカ プリンセス がんばる パーセント あばしり ショート スパル ましけ アジェンダ 氷河便利 シーベル フェイク アフタ フルーテ ドリンク トレンチ

因みに今日的な狭義としてドイツ人(オーストリア人、ドイツ語圏スイス人をふくめる)の意で用いることも多い。ゲルマン人の一分派であるイングランド人が英語でドイツをGermanyと呼ぶのはこの狭義解釈に基づいているが、前述の通り必ずしも実態に見合っている訳ではない。

その存在は古くは古代ローマ時代のガリア戦記・ゲルマニアに著されている。ゲルマン人は傭兵や同盟兵としてラテン人の古代ローマと関係を持ったが、ケルト人とは違い一定の距離を保ちローマと同化しなかったとされる。古代末期にローマが衰退するとゲルマン人達は大移動を繰り返し欧州各地に進出、現在のゲルマン系民族の伝播に寄与し、中世ヨーロッパ世界の形成に影響を与えた。

年表 [編集]
紀元前80年頃 - ゲルマン人という用語が使われ始める。
ギリシアの歴史家ポセイドニオスがガリア地方に侵入した部族について記述したとされる。これは後世の古代ローマの歴史家の引用で伝えられている。
紀元前58年?紀元前51年 - カエサルのガリア遠征。
「ガリア戦記」の中でゲルマン人について記し、用語として普及する切っ掛けとなる。
9年 - トイトブルクの戦いでローマ帝国がゲルマン人の同盟軍に大敗。
これによりローマ帝国はゲルマニア中央部への進出を断念し、ラテン文化の伝播が押し留められた。
98年 - 古代ローマの歴史家タキトゥス、「ゲルマニア」を著す。
現在に至るまでゲルマン人研究での主要資料とされているが、誤った記述も多いとされる。
2世紀頃 - 最古のルーン文字成立。
375年 - 民族移動時代に伴い、ゲルマニア住民が大移動を開始する。
フン族の攻撃から逃げ延びようとした西ゴート族がドナウ川を超えてローマ帝国領内に侵入。378年、アドリアノープルの戦いでローマ帝国軍は敗退し、ウァレンス帝が戦死する事態に追い込まれる。以後、ゲルマン系諸民族が他の勢力と共に各地の領土を切り取って国家を形成していく。
415年 - 西ゴート族が西ゴート王国を建国。南ガリアとヒスパニア(イベリア半島)を領有する。
451年 - カタラウヌムの戦い。西ローマ帝国と西ゴート王国、アラン王国の同盟軍がアッティラ大王を破り、フン人のガリア征服を断念させる。
5世紀 - グレートブリテン島 (現在のイギリス) にゲルマン部族の一派アングロ・サクソン人、ユート人が侵入。
ローマ帝国の後退と同じ頃にブリテン島に侵入し、在来のブリトン人を破って七王国をうちたてた。この騒乱が後のアーサー王伝説の元になったと言われている。
476年 - 西ローマ帝国、スキーリ族の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされる。オドアケルは西ローマ皇帝を東ローマに返却する変わりにイタリア総督、次いでイタリア王の称号を得た。イタリア王はその後、オドアケルを倒した東ゴート人やランゴバルト人の王に継承された後、フランク人の王位に統合された。
481年 - フランク人の諸勢力を統一したクロヴィス、メロヴィング朝フランク王国を創始。
アリウス派キリスト教からカトリックに改宗して、旧西ローマの住民との融和をはかった。
732年 - トゥール・ポワティエ間の戦い
イベリア半島から侵入してきたイスラム勢力をフランク王国が、現在のフランスにあるトゥール・ポワティエ間で撃退。
フランク王国カロリング朝・カール大帝の時代 (在位768年-814年)
フランク王国の最盛期。それまでの地中海文明から所有地を分離させるべく、キリスト教を共通文化とする「ヨーロッパ文明」を形成する。
8世紀?9世紀頃? - 叙事詩ベオウルフが成立。
英文学最古の作品の1つ。古代ゲルマニアの風俗を伝える。
843年 - フランク王国が分裂。
分割相続により3つの国に分かれ、その後、西フランク王国と東フランク王国に再編された。前者はフランス王国、後者は神聖ローマ帝国の原型を形作った。
8世紀後半?11世紀 - ノルマン人、デーン人の活動が活発化。
ヴァイキングとして知られ、恐れられた。東アジアや中東などの民族と混血していたとも言われるが、定かではない。
9世紀後半 - キエフ・ルーシ成立。ヴァリャーグがルーシ諸国家成立に関わる。
11世紀後半、フランスに領地を与えられていたノルマン系のノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服してノルマン朝を創始。→ ノルマン・コンクエスト
8世紀?10世紀 - アイスランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデンの国家が成立。スカンディナヴィア三国、王国を形成。
1130年 - ノルマン系の傭兵団、アラブ人を破って南イタリアを征服しシチリア王国を立てる(オートヴィル朝)。
? - サガが成立。
アイスランドに伝わる伝承。ノルウェーでも成立。

2009年03月11日

キューガーデン

キューガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew)はイギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。2003年にユネスコ世界遺産に登録された。

植物園はロンドンの中心部から南西に位置するリッチモンド・アポン・テムズとキューの中間に設けられている。現在の園長はサー・ピーター・クレーン。過去には、サー・ジョゼフ・バンクスやサー・ジョセフ・ダルトン・フッカーなどが園長を務めた。

キュー・ガーデンズの歴史はテュークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭を作ったことに始まる。その後この庭はジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人であるオーガスタ妃によって拡張され、ウィリアム・チェンバーズの設計による建築物が何棟か建てられた。そのうちの1つである1761年建造の中国のパゴダは今日も残されている。

ジョージ3世はウィリアム・エイトンやサー・ジョゼフ・バンクスに命じてさらに庭園の植物を豊かなものにさせた。旧キュー・パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチ・ハウスを買い上げて皇室の子供達を育てる施設とした。この建物は現在キュー宮殿として残されている。
コレオ おいで リトリート 宵待草 バック レポーター デトネー ペラル なよろ ラファエロ タムシバ レーション かぜのよ フリンダ トーイン シナリオ セミコン ブザム サイド ノータ ノール フラット パワフ フリゲート ソナチネ ますか かでん ローデ あかだい ハーレム エーション バレリーナ ネオン テレビ クロミッ キウイ ワラチ 水色の 遠き旅路 グラス フロート ハバロ もろあう マアア キャパ ホマホ スコア バンビダ ワジナビ セゾン

1840年に庭園は国立の植物園と改組された。ウィリアム・ジャクソン・フッカーの指揮のもとで植物園は30ヘクタールにまで拡張され、さらに後の改修で現在の120ヘクタールの敷地が完成した。

イギリス植民地政策とキューガーデン
往時のキュー王立植物園は、世界各地から資源植物(人間生活に必要なものを作ることができるとされた植物)を集め、品種改良などをおこなう場でもあった。イギリス植民地内の各植物園と情報交換などをおこない、それにより、育成条件の合致する植民地に移植してプランテーションでの大量生産を図った。

植民地への移植例としては、中国産の茶をインドのアッサム地方やスリランカへ
アマゾン川流域産の天然ゴムをマレー半島へ
ポリネシア産のパンノキを西インド諸島へ
マラリアの特効薬キニーネ(キナの樹皮)をペルーからインドへ
などがある。

2009年02月23日

ヒッタイト語(ヒッタイトご)

ヒッタイト語(ヒッタイトご)はインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)に属する言語。アナトリア半島のヒッタイト帝国の人々が話していた。
ルーズ リング このゆび セラピー マンタ ドッグフ リルック プッシュ ファンド 水晶パート キバナ ピラフ 時の雫 ドリブル トポス ミキシング ちょぼく ラリアン ブログ タティック リューマチ アーミン ラクターゼ ヨットレ ロケア ファイユ ラケット きつおん タービン マドン アルカイ ナビタラワ ブレザー ブルジ オルグゴン トラン ナビロト スキルア クロニ スタン オーバ リスク ドック サイト スティッ きくま パシフ チルバ カツ上 カウボーイ

ハットゥサ(現在のトルコ北部ボアズキョイ)を中心とするヒッタイト帝国で、紀元前1600年(たぶんそれ以前)から紀元前1100年のころ用いられたが、ヒッタイト語とその同系言語(まとめてアナトリア語派と呼ばれる)はそれ以後も数百年にわたって用いられたらしい。

ヒッタイト語は他の印欧語と異なる点が多く、早い時期に印欧語から分離したと推測されてきた。印欧語族の「姉妹言語」と考える研究者もいる。

ヒッタイト語という用語には問題がある。ヒッタイトというのは旧約聖書の記録にちなんで発掘後にこの帝国に付けられた名称である。

ヒッタイトで発見された文書はいくつかの言語で記されており、その中でヒッタイト語で記された部分にはnesili (またはnasili 、「ネサの言葉で」の意)と書かれている。またKanisumnili 「カネシュの言葉で」と記された場合もある。ネサとカネシュはヒッタイトの中心的都市の名で、同じ都市の可能性もある。

元来ヒッタイトあるいはハットゥサというのはヒッタイト人が支配する前からいた原住民が称した名と考えられる。その言語はやはりヒッタイトの文書の中に用いられているが、ヒッタイト語とは全く別系統であり、区別するためにハッティ語(原ハッティ語)などと呼ばれる。

解読
ヒッタイト語は20世紀初頭に解読され始めた。1902年にヨルゲン・クヌートソン(en:Jørgen A. Knudtzon、ノルウェー)が、ヒッタイト領で発見された粘土板の多くがアッカド式楔形文字で書かれていることを指摘した。これらは音節文字で書かれていたため解読が進んだ。1916年にベドジフ・フロズニー(en:Bedřich Hrozný、チェコ)が、この言語は印欧語に属すると結論し、それによってさらに解読が進んだ。

同系統の言語
ヒッタイト語以外にもヒッタイト帝国やその後のアナトリアで用いられた同系と思われる言語(ルウィ語、パラ語、いわゆる象形文字ヒッタイト語、リディア語、リュキア語)があり、まとめてアナトリア語派と呼ばれる。

ヒッタイト語は粘土板と碑文で知られている。またヒッタイト帝国の碑文あるいは周辺国で用いられた言語として、ヒッタイト語に似たルウィ語、パラ語があり、ヒッタイト語同様に楔形文字で書かれた。「ヒッタイト象形文字」と呼ばれる文字は現在ではむしろルウィ語に近い言語を書くのに用いられたことがわかっており、「象形文字ルウィ語」とも呼ばれる。。

リディア語とリュキア語は旧ヒッタイト領で後に(紀元前4?5世紀頃)用いられ、ギリシャ文字に近いアルファベットで書かれている。ヒッタイト語かルウィ語に由来する可能性もある。

ヒッタイト語、ルウィ語には借用語が多く、特に非印欧語のフルリ(ミタンニ)語やハッティ(原ハッティ)語に由来する宗教用語が多い。ヒッタイト語が主要言語となった後でも、ヒッタイトにおける宗教的文書の多くはハッティ語、フルリ語、アッカド語で書かれた。

その他に資料は少ないがカリア語、ピシディア語、シデ語、ミリヤ語などが知られる。アナトリアはアレクサンドロス大王の東征以後、ヘレニズム文化に席巻され、一般にこの地の先住民言語は紀元前1世紀までに絶滅したと考えられている。

言語の特徴と系統
ヒッタイト語は印欧語として最も古いものの1つと考えられるにもかかわらず、サンスクリット、ギリシャ語、リトアニア語など古風な言語の示す複雑さを欠いている。

文法 - 性、格
ヒッタイト語には通性と中性の2性(あるいは生物と無生物か)しかない。名詞には5格しかなく(サンスクリット、リトアニア語には8格ある)、その中の一部は一般の斜格(述語に用いられる格)語幹に接尾辞をつけただけのようにみえる。動詞もサンスクリットやギリシャ語のような複雑さを持っていない。このような文法の単純さはヒッタイト語が分化したあとに起こったものかもしれない(例えば他の言語と異なり、親族名称に幼児語的なものが多いことから、創始期における社会の急激な変動が示唆されている)が、逆にヒッタイト語やトカラ語の文法の単純さこそが印欧語の古層を保存していて、その後その他の言語に変化が生じたとする説もある。

喉音
ヒッタイト語には喉音が残っている。これらは1879年、他の印欧語の母音音価にもとづいてフェルディナン・ド・ソシュールが仮説を出したが、他の知られている印欧語には単独の音素として残っていない。ヒッタイト語ではいくつかの喉音がh として書かれる。ヒッタイト語はこの点では非常に古風であり、喉音の発見はソシュールの仮説をみごとに確証したのである。

系統
以上の喉音の存在および文法的単純さから一部の比較言語学者は、アナトリア語派は他の印欧語各語派祖語よりも早い時期に原印欧語から分かれたと考えている。「インド・ヒッタイト(超)語族」を想定してこれからアナトリア語派とその他の印欧語諸語派が分かれたと考える人もいる。

2003年にニュージーランド・オークランド大学のラッセル・グレー博士らが、分子進化学の方法(DNA配列の類似度から生物種が枝分かれしてきた道筋を明らかにする系統分析)を応用して印欧語族の87言語を対象に2449の基本語を調べ、言語間の近縁関係を数値化しコンピュータ処理して言語の系統樹を作った。その結果紀元前6700年ごろヒッタイト語と分かれた言語がインド・ヨーロッパ語族の起源であり、ここから紀元前5000年までにギリシャ語派やアルメニア語派が分かれ、紀元前3000年までにゲルマン語派やイタリック語派が出来たことが明らかになったという。インド・ヨーロッパ語族の起源として考古学的には、紀元前4000年頃の南ロシアのクルガン文化と、紀元前7000年頃のアナトリア農耕文化の2つの説が有力視されていたが、以上の結果は時代的にはアナトリア説を支持するものである(Russell D. Gray and Quentin D. Atkinson, Nature 2003, 426(6965):435-9.)。

ただし従来ヒッタイト人は紀元前2000年頃に黒海方面から南下したというのが通説であり、彼らが一貫してアナトリアにいたという証拠はない。

2009年02月07日

畠山昭高・畠山義統・畠山義総・畠山義続

畠山 昭高(はたけやま あきたか、天文3年(1534年)- 元亀4年6月25日(1573年7月23日))は河内国の守護大名・戦国大名。畠山政国の三男。初めの名を政頼・秋高といった。(なお、「昭高」と名乗ったかどうかについては疑義が呈されてもいる)。左衛門督。
オーナー スキャン マカダミ プレリ トリニダード ジャタン ミヤコサ コビット ラトビア ギナー サイプ シャッフル ネイル ガイア コナ最適 ネバダ ナビミュ 猫物語 たてにしき オート セネガ フローズン スーパ 秋のメルヘン ゼルオー ハルツーム はっく ハードル イタリック サクセス シャーク シート ハイオ キッチュ ロール シアーズ アカマ ジルバ サーズ リバー テーマ ディアム クッパ ねこふん ノーモア フェーズ プレイ さかい ファイ ビタミン

13代将軍足利義輝に相伴衆として近侍していたが、永禄の変において将軍足利義輝が殺害されると、弟の足利義秋がいる近江の矢島御所に仕えた。

兄・畠山高政を補佐して三好長慶と争う。後に高政から家督を譲られ当主となったと目されており、さらに義秋の一字を貰いうけ秋高と名乗った(のちに将軍になった義昭から「昭」の字の偏諱を重ねて与えられ昭高と改名したという)。

近江の矢島御所においては兄畠山高政の重臣である安見宗房と共に義秋の将軍就任に尽力した。

1568年に足利義昭が織田信長と共に尾張から上洛してくると河内の兄畠山高政も、これを支持する。兄畠山高政は幕府を再興した足利義昭および織田信長に河内半国守護を認められた。

同年、兄が畠山家重臣の遊佐信教によって紀伊国に追放されると、畠山家新当主として擁立される。

1571年には、河内の上半国の守護に任じられていた三好義継が反乱を起こし松永久秀と共に河内の畠山方の諸城を攻撃すると、宗房と共にこれに抵抗する。しかし遊佐信教が三好氏と同調する気配を見せたため昭高は信長の妹を妻とし、その援軍を得て遊佐信教を倒そうとしたが、1573年遊佐信教に逆襲されて殺されてしまった。

遊佐信教は昭高死後復帰を図った兄畠山高政を退けるも、信長によって滅ぼされた。

その後河内は信長の家臣である佐久間信盛の統治下におかれ、畠山氏の旧臣の多くも信盛の指揮下におさまり、紀伊において命脈を保つのみとなる。しかし畠山氏の家督は甥の畠山政尚に継承され、江戸時代にも高家として存続した。

畠山義統
畠山 義統(はたけやま よしむね)は、室町時代後期の能登の守護大名。能登畠山氏の第3代当主。

第2代当主・畠山義忠の嫡男・畠山義有の嫡男として生まれる。永享9年(1437年)に父が戦死したため、祖父の義忠より世子として指名された。そして祖父が隠居したため、家督を継いで当主となった。ただし、若年のため、祖父による補佐をしばらくは受けた。

応仁の乱では畠山義就を支持して山名宗全が総大将である西軍に与し、細川勝元や畠山政長の東軍と戦った。応仁の乱が終わると能登に帰国し、以後は在国大名として守護大名としての権力再編・強化に務めた。1479年頃には、越後守護上杉房定と婚姻関係(具体的な婚姻関係は未詳)を結び、越中侵攻を企てる。長享元年(1487年)、加賀で一向一揆が起こると、富樫政親を支援した。

やがて、延徳2年(1490年)に能登門徒による義統暗殺計画が発覚し、義統は越後の長尾能景と連合して越中・加賀の一向一揆と開戦する。だが、一揆側は畠山一族の勢力削減を図る管領細川政元の支援を受けており決着はつかなかった。

また、義統は文化人でもあり、応仁の乱で荒廃した京都から多くの文化人が能登に下向してきた。このため、能登は大いに繁栄した。明応6年(1497年)8月20日、鹿島郡府中の屋敷において死去。跡を嫡男の畠山義元が継いだ。

畠山 義総
畠山 義総(はたけやま よしふさ)は、能登の戦国大名で、能登畠山氏の第7代当主。能登畠山氏の全盛期を創出した名君として知られる。

延徳3年(1491年)、能登畠山氏の第5代当主・畠山慶致の子として生まれる。祖父で第3代当主であった畠山義統が死去した後、能登畠山氏では内紛が起こり、それによって第4代当主であった畠山義元は追放され、代わって第5代当主に畠山慶致が擁立された。しかし永正3年(1506年)に義元が第6代当主として復帰したため、父の慶致は隠居し、その実子である義総が義元の養子となり、後継者に指名された。

その後は義元と共同統治を行なって一向一揆を鎮圧し、畠山家当主の権力強化による守護大名から戦国大名へと脱皮にも成功した。永正12年(1515年)の義元の死去により、家督を継いで第7代当主となる。しかし大永5年(1525年)までは父・慶致と共に共同統治を行なった。

義総は積極的な国作りを行ない、居城を七尾の城山に移して五大山城と称される名城・七尾城を建設した。この七尾城は後にあの上杉謙信の猛攻を受けても1年以上耐え切ったことを見てもわかるように、天下でも屈指の堅城として讃えられた。また、義総は優れた文化人でもあり、戦乱を逃れて下向してきた公家や連歌師などの文化人を積極的に保護し、さらには商人や手工業者にも手厚い保護を与えて、義総治世の七尾城下町は、小京都とまで呼ばれるほどに発展したという。

天文14年(1545年)、畠山家本家の畠山稙長が死去し、稙長は家督の譲渡を義総の子・畠山義続にと申し出てきた。義総は畠山氏を統一する良い機会ととらえて、その実現を図ったが、自身も7月12日に病死してしまい、これは実現されること無く終わってしまった。享年55。後を次男の畠山義続が継いだ。

義総の時代は、能登畠山氏の全盛期であった。しかし義総が死ぬと重臣たちの主導権争いが始まり、畠山氏は急速に衰退してゆくこととなった。

畠山 義続
畠山 義続(はたけやま よしつぐ)は、能登の戦国大名。能登畠山氏の第8代当主。

生涯
第7代当主・畠山義総の次男として生まれる。長兄に嗣子である畠山義繁がいたが早世したため、後継者となる。天文14年(1545年)に父・義総が死去すると、家督を継いで第8代当主となる。しかし、義続の頃には家臣団による権力争いが頻発した。

天文16年(1547年)には加賀に追放されていた叔父の畠山駿河が一向一揆の助力を得て能登に攻め込んでくる(押水の合戦)。天文19年(1550年)には重臣の遊佐続光と温井総貞の権力争いのため七尾城が一部焼失するなど、義続は家臣団をうまく統率することができなかった。

この結果、大名権力が失墜し、重臣達は大名権力を傀儡化する畠山七人衆と呼ばれる年寄衆組織を作り、実権を握った。天文20年(1551年)に義続はこれら一連の騒乱の責任を取る形で、家督を嫡男の畠山義綱に譲って隠居し、以後は義綱の後見人を務めた。

その後は大名権力の回復を目指し、弘治元年(1555年)に義続は畠山七人衆の実権を握る温井総貞を他の重臣と協力して誅殺した。こうして一時は大名権力を取り戻したのだが、その後にさらなる権力強化を図ってかえって重臣の反発を招き、永禄9年(1566年)に重臣によって孫の畠山義慶が擁立されると、義続は義綱と共に国外追放とされてしまった(永禄九年の政変)。

その後、六角氏と縁戚関係があったために六角氏の領国である近江坂本に逃げ延び、永禄11年(1568年)に義綱と共に能登復帰を目指して挙兵したが失敗した。天正18年(1590年)3月12日に死去。

肖像画の謎
高野山成慶院所蔵の長谷川等伯筆「絹本著色武田信玄画像」という中年層の武将を描いた肖像画がある。その肖像の中にある人物は、両鬢が薄く入道頭で角度によれば剃髪した人物にも映る。また、丸顔で恰幅がよく体格は老齢に近いにもかかわらず健康的である。この肖像画の人物を、よく武田信玄の姿であると説かれている、と言えば誰でも脳裏に浮かぶ肖像画であろう。

だが、近年は藤本正行により武田菱の家紋が描かれてない、また39歳を数えて出家して以降、信玄は肖像を残さなかった等の点が指摘され、にわかに信玄肖像説は否定されつつある。代って浮上したのが能登の出である長谷川等伯が畠山義続その人を描いたという説だ。等伯が能登とゆかりがあり、畠山氏の家紋も記されているなどが義続説の信憑性を裏付けている。だが、現段階では信玄説が否定されつつある、ということにすぎず決着を見るにはもうしばらく研究が待たれるところである。

2009年01月22日

ケバブ(トルコ)

ケバブ(トルコ)、カバーブ(インド・パキスタン・アフガニスタン・アラブ)、キャバーブ(イラン)、チェヴァプ(バルカン)は、中東地域とその周辺地域で供される、肉類をローストして調理する料理の総称。アラビア文字表記は???? (kabāb) で、日本語ではカバブという表記も一般的である。現代トルコ語では語末の子音が無声化して「kebap」と表記される。

もっとも典型的な調理法は、四角形に切った肉を串に刺して焼いたものである。ケバブ料理の本場として欧米や日本でもっとも知られているトルコでは、串焼きのケバブのほか、ヨーグルトを添えて食べるイスケンデルケバブ (İskender Kebabı)や、屑肉を固まりにし、回転させながら焼いたものを削ぎ切りしたドネルケバブ (Döner Kebabı)などのバリエーションがあり、様々な焼肉料理がケバブと総称される。なお、焼く代わりに煮込んだり、揚げたり、蒸したりする肉料理もカバブと呼ばれることがある。

同地域では、挽肉を固めたハンバーグやミートボールにあたる肉料理にはトルコではキョフテ(köfte)、アラブ諸国ではクフタ(????? kufta)あるいはコフタ、イランではコフテ(????? kofte)、インドではコーフター(??????? kōftā)、アルメニアではキュフテ(Keufteh)という名前があるが、トルコやイラン、アフガニスタンでは挽肉をつくね状にして平たい金属製の串に巻いて焼いたものはケバブ料理に含まれ、コフタ・カバーブと呼ばれる。なお、イラクではコフタを串に巻いて焼いたものをカバーブと呼び、四角形に切った肉を串に刺して焼いたものをティッカ(??? tikkah)と呼ぶ。

古代アッカド語には「焼く」または「焦がす」という意味の「カバブー」(kababu)という言葉があり、これからアラビア語の「カバーブ」が派生したという説がある。

串焼きのケバブは、「串」を意味する語を付して、トルコではシシュ・ケバブ Şiş Kebabı、アラビア語圏ではシーシュ・カバーブ ??? ????、インドではシーク・カバーブ (???? ???? ??? ???? sīkh kabāb)と呼ばれる。

日本では、インド料理のシークカバブが早くに紹介され、それがトルコ風に訛ったシシカバブーという名前で親しまれてきた。近年、トルコ料理としてのシシケバブが紹介されるにつれ、もともと同じ料理であるけれども調理法の異なるシークカバーブとシシュケバブが混同され、日本で古くから親しまれてきた本来インド料理であるシークカバーブ(つまりシシカバブー)の本場がトルコであるとの誤解も生じているようである。

トルコなどのイスラム教国の場合、ケバブには主に羊肉、牛肉、鶏肉が使われ、魚も使われることがある。ヒンドゥー教徒が多いインドでは、ムスリム専用食堂など一部の場を除いてシークカバーブに牛肉が使われることはなく、もっぱら羊肉や山羊肉が使用される。ほか魚や鶏肉のシークカバーブもあるが、羊のものに比べればあまり一般的ではない。

イランの国民食は、角切りにしたヒレまたはサーロインを串に刺して焼いたキャバーベ・バルグ(???? ??? kabāb-e barg)または味つけした挽肉を串に巻いて焼いたキャバーブ・クービーデ(???? ?????? kabāb kūbīde)をチェロウ(??? chelow)という白いピラフの上にのせて食べる「チェロウ・キャバーブ」である。

ドネルケバブは垂直の串にスライスした肉を上から刺していって積層し、水平に回転させながらそれを囲んだ電熱器(以前は炭火が使われていた。現在でも中東の一部では使用している地域がある)の熱で外側から焼き、焼けた部分から順次肉を削ぎ落としたもので、ギリシア料理のギロ、イロ gyro、アラブ料理のシャワールマ ??????(イラクではグス Guss)とほぼ同じ料理である。

トルコでは羊肉、鶏肉が主に使われ、レストランでは皿に盛って供されるが、屋台ではパンにサラダと一緒に挟む食べ方でテイクアウトメニューになっている。

欧米や日本では、トルコでのドネルケバブの食べ方の一例である、パンに野菜サラダと一緒に挟む食べ方が広まっており、ギリシャ風にギロと呼ばれることも多い。トルコではフランスパンのような棒状のパンを使うが、海外では丸いパンをふたつに割ったものにサンドするのが一般的で、ドネルサンドなどと呼ばれている。肉も、羊肉の代わりに牛肉が使われることが多い。また、ドネルケバブのサンドイッチに使われるパンが、円形で内部が空洞のピタを半分に切って袋状にしたものであることもあり、その場合、袋状の内部にケバブとサラダが入っている。

また、海外ではケバブとサラダをパンに挟んだあとに、チリソースやハリッサなどのソースをかけることがある。ドネルケバブの肉には、香辛料やヨーグルトを用いてあらかじめ十分味付けをしてあるため、トルコでは調理後の味付けは塩を振る程度である。
パンチ ナビスパ キログラム ユーロ 風花 スマート ラビット リュクス リバー ナビピ スタチオ パラダイス 朝の山道 タイム すいば レバー クニカル ハイレ アーマー マレーシア まーこ ビフテキ 生かす マラケ 自然薯 ボック プラチナ ライフプ オマーン ドーハ 道しるべ オーガ うみわに ミーズ あかちゃ トロンボ 逢坂の関 スポッ シティ ミックス ドマーク ジニーメイ スプレッド はっさく フリート フォトン ブレード シアトー タイム ハウス

中東諸国以外での普及
ヨーロッパでは、ドイツにトルコ系の移民が持ち込んだドネルケバブが一般的で、ヨーロッパではドネルケバブがファストフードの定番となるほど広まっている。このため、ヨーロッパでケバブというと一般的にはトルコ料理のドネルケバブを指す。フランスでは、ケバブにはフライドポテトがつきもので、チュニジアの辛いソースハリッサをかけて食べる。

ロシアでは、1870年にモスクワで初めてシシュ・ケバブ風の「シャシュリク」を売り物にするレストランが開店した。初期のシャシュリクは主にカフカス地方風のケバブであったが、後には中央アジア風のケバブもシャシュリクとして知られるようになり、ソ連時代に全域に広がった。タマネギやハーブなどとともに酢・ワインなどに長時間漬け込んで下味をつけ、串に刺して焼く人気料理である。なお、ドネルケバブは「シャシュリク・ポ・カルスキー」( shashlyk po-Karski 、カルス風シャシュリク)として知られている。[2]

アメリカ合衆国では、カバブ(しばしば "kabob" と表記)というとむしろ串焼き料理であると認識されている。アメリカではビーフ・カバブ、チキン・カバブのほかにベジタブル・カバブと呼ばれるようなものまであり、ピーマン、タマネギ、ズッキーニ、豆腐やマッシュルームなどが主に使われる。肉のカバブでも、肉と野菜を交互に刺すことも多い。英語でケバブというと普通シシュ・ケバブまたはドネルケバブを指す。ドネルケバブはギリシア料理のイロとして最も良く知られており、名称の知名度ではシャワールマとドネルケバブがこれに続く。

カナダでは、1970年代始めごろ、ドネルケバブにエバミルク、砂糖、酢などを材料とした甘酸っぱいソースをかけ、刻んだトマトと玉葱と一緒にピタのような平焼きパンで巻いた「ドネア (donair) 」がノヴァスコシア州ハリファックスに現れて以来、全国に普及した。現在「ドネア」はグレコ・ピッツァ・レストラン (Greco Pizza Restaurant) をはじめとするピザチェーンの人気メニューとなっている他、パン、ソースと肉をセットにした「ドネアセット」が市販されている。

メキシコでは、主に豚肉をドネルケバブ式に調理したものを「アル・パストール」( al pastor 、「牧童風」)と呼び、タコスやブリートの具として人気が高い 。

ブラジルでも第一次大戦前後にシリアなどから移住したトルコ人が持ち込んだものが普及している。やはりコッペパン状の長めのパンに切れ目を入れてモーリョ (Molho) と呼ばれる細かく切った野菜サラダと共に肉を挟み、オレンジジュースとともに供する。

日本での普及
日本では、古くからインド料理としてのシークカバブが愛されてきたが、東京や名古屋など、在日トルコ人が増加している都市部でドネルケバブを供する屋台や移動販売車の数が増えてきた。それらの都市部やその近辺では縁日でそのような屋台が出店することもある。日本でもヨーロッパに続いてドネルケバブがポピュラーなファストフードとして受け入れられつつある。

日本で販売されているケバブのほとんどが鶏肉か牛肉を使用している。これは日本人が羊肉を食べ慣れ無いため匂いを嫌って食べない理由から、更には日本で羊肉の入手が困難な事も有り代用の肉を使っている。このため中近東やアラブ系移民が多く住むヨーロッパで食べられている羊肉のケバブとは全く別物の味になっている。肉を焼く際に下味として使われる香辛料も控えめである。また半分に切ったピタに肉とサラダを詰めたものが一般的で、マヨネーズベースのソースが掛かっていることが多い。


2009年01月15日

鳥の海の干拓(とり-うみ-かんたく)

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鳥の海の干拓(とり-うみ-かんたく)は、秋田県横手市に伝わる伝説のことである。横手市の所在する横手盆地が大昔は広大な湖であったが、湖水を日本海へ流し出す干拓をおこなって広い農地を得たという経緯を述べている。

人々が地上に暮らすようになって間もない頃の河辺郡、仙北郡、平鹿郡、雄勝郡は、「鳥の海」(とりのうみ)と呼ばれる広い湖であった。

あるとき塩釜(現在の宮城県)から、塩釜神社に祀られた塩釜大明神の子孫、明永長者(みょうえいちょうじゃ)、明保長者(みょうほちょうじゃ)という2人の兄弟がやって来た。兄の明永長者が病に倒れたため、2人は近隣の民家に助けを求めた。その家の娘の献身的な看護のおかげで明永長者は快復した。

2人はその家の主人に誘われて船で湖へ出た。湖面の向こうにそびえる鳥海山、背後の御嶽山の森などに見とれるうち、水戸(河辺郡)付近の谷間から湖水が流れ出ているのを見つけた。ここを切り水を捌けば広い平野が得られると明永長者は考え、明保長者も頷いた。主人は驚いていたが、2人は彼の娘にお礼の小袖を置いてその家を去った(旧山内村外山(そでやま)の地名の由来といわれている)。

2人は湖の下流、水上浦(みなかみうら)という場所で神々に工事成就を祈願したが、そこへ老婆が現れて酒を勧めた。その酒はいくら飲んでも無くならず、気付けば老婆はいない。彼女が龍神様の化身だと気付いた2人は、この場所を女造酒(めめき)村と名付けた(旧雄和町女米木といわれている)。

干拓工事が始まった。女造酒の西北の谷を掘った土は人夫が「猿手」(さるで)という道具で運んだ(旧雄和町左手子(さでこ)の由来といわれている)。

工事は長期間におよんだが、やがて谷が開くと湖水は懸河となって日本海へと流れ出た。そこへ「だいだらぼっち」という巨男が現れた。その右足は奥羽山脈のふもとの長者森(横手市)に、左足は出羽山地の八沢木(旧大森町)にあり、彼が水をかいたり泥をすくったりしたため水は順調に抜けていった[1]。彼は(秋田市)太平山の森へと去った。三吉神社の化身であったかと思われる。

明保長者はこの新しい平野に住み着き、地元の人々に灌漑や農業の技術を教えた。人々は彼に副川長者(そえかわちょうじゃ)という名を献呈し、のちに副川神社を建立した。

明永長者はこの平野を山北(やまきた。のちの仙北(せんぼく))と名付けた。彼も農業の知識を人々に教授した。彼は御嶽山の国見峠から平野を見回した。また彼は人々を集めて酒を振るまい、神楽を演奏して、工事の成功を祝ったという。以上が御嶽山・塩湯彦神社(しおゆひこじんじゃ)に伝わる伝説である。

横手市には「明永町」という地名が残り、同町の熊野神社付近には「明永沼」がある。そこから御嶽山が見える。

伝説の背景

横手盆地の形成
伝説の舞台となる横手盆地は、雄物川とその支流がつくったいくつもの沖積地からなる、面積は693.59平方キロメートルで、東京23区や琵琶湖の面積に匹敵[2]する広大かつほぼ低平な盆地である。秋田県南東部から北西方向に流れる雄物川は、秋田市雄和女米木、雄和左手子付近の狭搾部では両側から山地が迫る間を大きく蛇行し、日本海へと流れ下っている。

第三紀の末頃から、現在の東北地方にあたる地域に、太平洋プレートの西進を原因とする東西方向からの圧縮力が加わるようになった。そのため褶曲と逆断層が交互に生じ、縦にしわが並ぶように低地と高地が交互に現れた。秋田県から岩手県にかけて、低地(秋田平野)、山地(出羽山地)、低地(横手盆地)、山地(奥羽山脈)、低地(北上盆地)、山地(北上山地)という地形の配置となった。